母が自殺してから、5年が経過しました。正確には5年と1か月くらい。
母が自殺した前後1年くらいの事を、いつかこのブログにも書きたいと思っています。とても辛いですが。
でも、自分の母が八つ当たり的に自殺をした時、ずっとスマホで
- 親 自殺
- 母親 自殺
- 親 行方不明
- 母親 行方不明
- 家族 自殺 辛い
といったワードで検索をかけ、同じような経験をした方の実体験を読みたい、と思っていたからです。
もう少し、時間がかかりそうです。
夕暮れ時から夜にかけての静かな時間
母が亡くなり5年。
今日は一人、仕事をするために所有している山小屋にいます。
とても静かで人気のない場所。
家の前には、数十メートルの木もあるような原生林が広がっています。
日が落ちると、静かな森の闇に包まれます。
夜の森の音を聞きながら、ベランダに出て一人で過ごす時間に癒されます。
今日は静かなピアノ音楽をかけながら、ベランダでしばらく時を過ごしました。
そこでふと、「私はピアノの音が本当に好きだなぁ」と思いました。
ピアノは3歳から
3歳からピアノを習い始めました。練習が嫌で、レッスンも嫌いでした。
母に褒められたい、母に叱られたくない、母の虚栄心を致したい、という気持ちが強いまま続けていましたが、小学4年生の頃にピアニストのコンサートに出かける機会があり、そこから本当にピアノの音が大好きになりました。
元々音楽は、自分自身も好きだったのだと思います。
母への思いを整理するにつれて、「親の言いなりになりたくてピアノ好きを装っていた」部分が外れて、本来の自分が「ピアノが好きなんだ」ということに気づきました。
辛い時には、いつも音楽が支えだった
辛いことがあると、いつも部屋にこもって音楽を聴いていました。
日本の歌謡曲やポップス、洋楽やクラッシック、様々なジャンルを聞いてきました。とにかく、つらい時にはいつも、音楽の中にに置いていたように思います。
ピアノを聞きながら、涙をこぼして思うこと
今夜、一人でピアノを聞きながらすごしていたら、涙がこぼれました。
ああ、お母さんに会いたいなぁ。
と言う気持ち。
兄は、ご飯ちゃんと食べているかな。
兄は、心細くないかな。
兄への思い。「頑張れ!」という思い。
何故涙がでたのかな。なぜ泣いているんだろう…。
そう自分の気持ちに向き合った時に浮かんだ言葉が
- お母さんに会いたいな
- 兄と、あたたかな会話をしたいな
- 弟と、楽しい時間を過ごしたいな
- 父に、頑張ったな、しあわせになりなさい、と言われたいな
でした。
家族への思い、あたたかな実家へのあこがれ
私には、母親がいましたが、見事な毒母でした。
そして、5年前、自殺しました。だから今は、私に母親はいません、この世には。
父親は、そんなかつての実家から逃げるように出て行きました。追い出されるように…だったかもしれませんが。遠くで生きているようなことを聞きますが、おそらく、もう逢わないだろうと思います。
なので、父親も私には、胃内も導線です。
兄がいますが、縁を切りました。
母との共依存関係が強制終了となり、依存先を私にしてしまいそうな状態だったことで、兄の自立と、私の人生のために、縁を切りました。
だから、私には、兄は、いません。
弟がいますが、あまり会えていません。
何かあれば、連絡を取り合うことは可能ですが、もともとあまり頻繁に連絡をとれていなかったことと、母の自殺の一件や、その後、兄のトラブルの窓口になってもらったことから、何となく疎遠気味です。
だから、私には、弟はいますが。少し、寂しい関係です。
私には、子供がいます。かけがえのない我が事です。
毒家庭に巻き込んでしまったにもかかわらず、私の実家家族を「くるってる」「頭おかしいところがある」と分析し、「でも、好きだったよ」「嫌いなとこもあったけど」と言ってくれるありがたい存在です。
子供に、寄りかからないように、自立して生きていくのだ。と襟を正す機会を折々でくれます。
頭数はいるけれど、私が家族と呼べるのは、弟と息子の二人です。
そして、親戚は、弟の家族。
コンパクトな、肉親関係。
さっぱりとしていていいさ。
人は一人でいきていくのだからさ。と。
分かっていても、やはり寂しいと感じる夜はあります。
あたたかな家族。団らんのような時間。
わいわいと、叶うならば、母と、父と、祖母と、兄と、弟と、弟の家族と、私の子供と…。
そんな時間が1度でいいから持てたらよかったのになぁと。
残念だなぁと。
祖母は90歳を超えてなくなっているから無理にしても、母があんなことにならなければ。
どこかで軌道修正ができていたら…。
もしかしたら…。
という思いに、今夜は涙です。
自殺した毒親のことを、恨んでもいいし、懐かしんでも良い
私は、母が亡くなった直後は、自分を責めました。
どう、生きていったらいいのかが全く分からなかった時期があったと思います。
ただ、子どもの存在があったおかげで、生き延びることができましたが、やっぱり直後の記憶はいまだにあいまいです。
2年くらいは自分を責めていたと思います。
母がしてくれたこと。「愛情」からくる言動も、「操作や支配」からくる言動もないまぜにして、「お母さんは一生懸命だったのに、私がダメなんだ」といった共依存特有の自責。
そこから、母のしてきたこと、母への自分の思いの棚卸をして、仕分けをして、一つ一つ処理をして、今、ここにいます。
自分を責める時期があり、実際の原因をみつめて、今度は母や他の家族への不満を膨らませたり。そんなマイナスの感情の渦の中で苦しみながら、少しずつ前進してきました。
私の母は、なかなか酷い部類の毒親ですが、「これは母からの本当の愛情が介在した」ものも中にはあったので、それが救いでした。
それを見つけ出すのに、とても苦労しましたが、見つけました。
見つけた時は、自分を責めてしまう思いが膨らみ、苦しくなりました。
そして、今、やっぱりちょっと苦しいです。
母が生きている頃、、それこそ、思春期頃に、親を恨んだ時期はありますが、おそらく、母が亡くなってからは、私は母に対して恨む感情を、あまり持つことはなかったように思います。
ただ、バカだなぁ。どうしてそうなっちゃうんだろうか。こらえ性が無い…。ばか。とは思いますが。
でも、人によっては、自分を責める位なら、親の事を責めたり、恨んだりしても良いと思っています。
そして、毒親は最悪だから、恨んだり、攻撃したり、絶縁したりするべき。愛情を注がなくていい。懐かしんだりしてもいけない。といった感情も、ありです。
しかし、時には「〇〇だったよなぁ」と、同情したり、懐かしんだり、しても良いと思います。
どちらでもいい。と思います。人に押し付けなければ。自分の中でだけ、そっと大事にしたい思い出があるなら、それを大切にしても良いと思います。
母に、甘えたかった
これに尽きるのかな。とも思います。
私は、母に甘えた記憶が殆どありません。
そして、人に甘えることが本当に苦手です。
今は、誰かを頼ったり、何か頼みごとをしたり、頼みごとを断ったりすることもできるようになってきましたが、でもやっぱり、まだ苦手です。
- 甘えてはいけない
- 頼ってはいけない
- 人に頼られる人になりなさい
という呪縛が、まだ少しあるのかもしれません。
母が私を利用するのはOK。母が私に甘えるのもOK。だけど、その反対は絶対に許されない事だった40年でした。
死んでしまいましたから、もう叶わないことはわかっていますが、やっぱり母に甘えたかったなぁ、って思います。
「お母さん、辛いよ…」と母に抱き着いてみたいです。
残念だな。寂しいな。と思います。
つらつらと書いていたら、涙が止まりました。
きっと、これ。どこかに吐き出したかったのだろうな。と思います。
時々、こうして胸の内を綴っていくかもしれませんし、綴らないかもしれません。
私の、こころを見つめる為の場に、このブログを使ってみようかな。