こんにちは、雨水(うすい)です。
機能不全家庭で育ちました。母と祖母がわかりやすいパワー型の毒親でした。
かつての私は、機能不全家庭で培ってきた「毒のプログラム」「毒軸のルール」に縛られて苦しい日々でした。色々なものに手を出し、試行錯誤しながら、現在はその「毒の思考」を捨て、穏やかに暮らせるようになりました。
同じような苦しみを抱えた方に、こういった「毒の体験」をして苦しんでいた過去があっても、幸せに暮らせている人間がいる、という事を知っていただき、少しでも前に進むヒントになればと、ブログを始めました。
しばらくは「私の生い立ち」についてつづってまいりましたが、本シリーズでは、私が最後に母と対決した頃のお話についてご紹介していきたいと思います。
本記事では、シビアな単語やエピソードが登場します。
- 実母の自死
- 私の自殺未遂
- 身体障碍・精神障害の兄弟
- 詐欺
このような単語を目にして、少しでもお気持ちがザワ就いた場合は、本シリーズをお読みになるのはお控えください。上記以外にも、おそらく関連する厳しい単語が登場します。
はじめに
本記事は私の実体験です。辛辣な単語も登場しますし、冒頭で記載しました通り、「母の自死」についてのエピソードも登場するお話になります。
また、私の「自殺未遂まがい」のエピソードも登場します。
- お気持ちが塞ぎがちな時に本記事をお読みになるのはお控え下さい
- 本記事はシリーズ化して綴る予定です。私の実母の自死に関するエピソードも登場しますので、シビアな状況の方にはお勧めしません
- 本記事は、私の実体験をもとに書いていますが、私や家族のプライベートを守るために、若干設定を変更する場合がありますことをご了承ください
- 一般的にはハードな部類に入る体験談かもしれませんが、不幸自慢をしたくて記載しているわけではない、ということをご承知おきください
- 身近にお辛い方がいて本記事をお読みになる場合は、私の体験と、身近な方の体験を比較して、その方を慰めようとすることはお控え下さい
- ご自身の体験と重ねて、読むうちに苦しくなる場合は、直ちにお読みになるのをおやめください
- ご自身の体験と重ねて、「私はまだまだ大変じゃないんだ」と万が一思ってしまった場合は、「私は私」「この人はこの人」と線引きをしてください。それができない場合は、直ちに読むのをおやめください。
機能不全家庭で育ったり、毒親に関わりながら人生を過ごしてきた方は、どうしても他者と自身を比較しがちです。それは、仕方のないことです。
でも、この記事をお読みになって「余計苦しくなる」「自分はだめだ」「私の不幸は大したことないのに…」と落ち込んでしまわれるのは誤りです。
こんな風に人生を送ってきた人間も、どうにかして幸せな毎日を送っている。
だからきっと私も、今の辛い状況から脱出できる。そんな風に思ってもらえる、活路のヒントになればと綴っています。
どうかご自身を責めたりせず、ふむふむ、そうか、頑張ろう。頑張れそう、というコンディションの時に、開いて頂けたら、と思います。
- 機能不全家庭や毒親育ちで苦しんでいて、実体験を読みたい方
- 毒親が自殺をした。辛い。同じような体験をした人の経験談を読みたい方
- 自殺未遂の経験があっても幸せに暮らせている人の体験談が読みたい方
- 心療内科にどっぷり浸かっていた人間が、どんなふうに生活して人生立て直したのかの体験談が読みたい方
本記事は、かつての私のような体験や、心の辛さを抱えている方向けのものです。
何度も記載していますが、辛い単語も並びますので、読んでいて心が沈む場合は、一旦記事から離れてください。
ご自身の心を守る。まずはこれが一番大切な事、だと思っています。
久しぶりの心療内科通い
心療内科に通っていました。そうなったキッカケは、子どものトラブルが表面的な原因ではありましたが、今思えば、母・私・子供の3人での5年にわたる共同生活が問題だったと、今は思います。
それまでの3人での共同生活についてはまた改めて記事にしていきたいと思っています。
かつてブラック企業にいた頃、離婚問題(離婚しました)に苦しんでいた頃に味わった違和感や、首の後ろの痺れ、記憶障害、不整脈、不眠、摂食障害、冷え、PMS、そして、以前に増して強まる希死念慮。
これらの症状から、心療内科の門を叩きました。
初診のカウンセリング中に、状況説明をしているさなか、頻脈がおこり過呼吸。
今思い出しても、良く生きていたな。生きていてくれてありがとうね、私。と静かに思います。
当然診断もいくつか下り、お薬もなじみのモノと、少し強めの懐かしいものが処方されました。
はじめのうちは家族に内緒で通っていましたが、例によって母は私の行動や持ち物を常に監視していましたから、すぐにばれました。
毒親あるあるだと思うのですが、子どもの荷物や部屋を物色しますよね。あれは本当に背筋が凍ります。(私は絶対にしない。というか、発想がないので本当に不思議です)
週に1度の通院でしたが、毎回薬が強くなり、量も増えていきました。
何度か心療内科通いの経験もありましたし、断薬もこれまでに成功していたのですが、この頃にはその判断が危うい感じでした。そして、通っていた病院も、「心療内科」ではありましたが、メインは「認知症」に特化していた医院でした。
今考えると、当時の私に限ってですが、病院選びを失敗していました。
その理由は後述します。
問題が山積。処方薬が強まる。母のいる生活
精神科の服薬が常習化し、毎日、1日の上限量ギリギリまで服薬しても気分も全く改善せずに、希死念慮が強まっていきました。
病院のカウンセリングも受けていましたが、家族問題に関することについてはあまりタッチすることがなかったため、病院とは別のカウンセリングに通うことにしました。
当時の表面的な悩みは、「発達の特徴を持つ子供の育児」「発達の特徴のある親との関わり」についてでした。
「発達っ子の育て方や関わり方」について、専門機関をそれまでもたくさん渡り歩いてきましたが、どこへ行っても私の持っている知識よりも薄いケースが多く、何の役にも立たない。
そんな風に思っていた時に見つけた、「ここならば」と思えるカウンセリングルームがありました。
そして、そこでアドバイスされたのが
- 子供や親からの執拗な関わりに限界を感じた場合は、逃げてください
というものでした。
逃げる?どこへ?
発達のある方との関わりが密な方や、毒親とのかかわりのある方には覚えがあるかと思うのですが、彼らは執拗に答えを求めます。
私の家族、特に母と子供は、何かあると、彼らの要求がのまれるまで私に対応を求めます。
例え、「もう今日は関わりたくない」「今日は体調が悪い」などと「お願い」をしたところで、入浴中であれば風呂にまで入ってきて指示を出したり困りごとを語り始める。
具合が悪く布団に伏せていてもベッドサイドにやってきて布団をはぎながら「ちょっと今いい?」など。
そして、これは彼らの気持のコンディションが良い時、つまりましな方で、虫の居所が悪い場合(特に母ですが)、部屋のドアを大きな音を立てて締めたり、全身から怒りのオーラを放ちながら、こちらが重い道理になる行動をするまで家庭内で当たり散らし、大声で罵倒する、泣き落とし、なんでも手を尽くします。
「逃げるってどこへですか?」
とカウンセラーに聞くと
「自分の部屋とか…」
と言われます
「自分の部屋に入っても、大声で怒鳴り散らしながら入ってきます」
「では、ご自宅から逃げてください」
と言われました。
「自宅から…」
「そうです。出かけてください。家にいない。出かける。逃亡してください」
そういわれました。
自我崩壊。追い立てる母。そして…
相変わらず問題は山積。解決の糸口はなく、その問題はただ時間経過だけが頼りだったある日。
これも毒親育ちの女性あるあるだと思うのですが、PMSが特にひどく私を襲った日がありました。
無理難題を帰宅後から言い続ける母に辟易し、苛立ち、死にたい、消えたい、という思いと、怒りが交差して自分を抑えられなくなっているのを自覚しながら、夕食の後片付けをしていました。
PMSの為、帰宅後から何度も吐き気に襲われながら、「薬がもったいないから」「もうすぐ薬が効いてくるはずだから」そう言い聞かせながらの数時間でした。
しかし、もう限界だと感じた私は、勇気を出して母に言いました
「お母さん、ごめん、今日は生理前で体調が悪いのと、気分のコントロールができないから話ができないの。明日以降にして欲しいの」
と。
すると、母は
「そんな生理痛、生理痛って、毎月の事なんだからいいかげん慣れなさいよ。それに、気分がどうとかなら、薬飲めばいいじゃないの?飲んだの?」
と言い放ちます。よせばいいのにそれに対して私も
「薬は飲んだけど聞いてくるのに時間がかかってるかもしれないし…」
「いいから飲みなさいよ。やることやらないと仕方ないんだから薬飲んできなさいよ」
と。
自分は一日家で好きな事をし、昼食は自分で用意しますが、朝晩の食事の支度やその他の家事一切は私がしていました。もちろん、夕食の後片付けも。
お茶を飲みながら小言を言い、私に指示を出すだけ。祖母が母に対してそうだったように、です。毒親の連鎖の典型ですね。
そして、先に飲んだ薬が効き始める前に追加で薬を服薬して、家事を続けました。
家事がひと段落し、部屋に戻ろうとすると、母が追い打ちをかけるように様々な要望や不満を私にぶつけました。
確か、母が部屋に何度か乗り込んできた。色々怒鳴っていた。とにかく追い立てられた。
そして、できるだけ聞かないように気持ちを無にした。生きるんだ。子供がいるんだ。私は母親なんだ。とにかく生きるんだ。と何度も心の中で繰り返して、1日の服薬上限を確認しながら、薬を飲み、耐えていたと記憶しています。
そして…
気が付いたら知らない駐車場にいた
目が覚め時に、観たことのない駐車場にいました。車の中。
そして、「帰らなくちゃ」「仕事」「子供の学校」そう思いながらも、何をしたら車が動くのかが判断できませんでした。
運転して、自宅に帰ろうと思うのに、どちらに向かえばいいのかも判断できません。
どうやったのか覚えていませんが、救急車を自分で呼んだそうです。
救急隊員が迎えに来て、どこかの病院に連れていかれた?警察だった?のかもはっきり覚えていません。
ただ、お世話になっている「おばさん」が「雨水ちゃん。。」と言って連れていかれていた部屋に入ってきて、私を抱きしめてくれたこと。
そして、なぜおばさんがいるのか聞いたら、「雨水ちゃんが、お母さんが来るなら逢わない、家族とは会えない、とにかくお母さんには絶対逢いたくない、そういったから。」だそうです。
どうやら私は、夜中に家を抜け出したようです。
スマホも家に置いたまま。
そして、母は私が死に行ったと確信し、おばさんに連絡をしたそうです。
おばさんと、母と、私の子供とで、私の行方を捜し、警察に捜索願を出していたところ、通報と合致して私が保護されたことを知り、おばさんも一緒にかけつけてくれた、という事でした。
何年も前のことですが、この時の記憶はやはりあいまいです。
家を抜け出した私は、生きようとしていたのか、死のうとしていたのか。
ただ、結果的に行ったことは、自殺未遂でした。
駐車場に到着した私は、処方されていた薬をすべて飲んでいました。
自殺しようとしたのか、わからないというのは、寒さに凍えないように、防寒の為のものを沢山身の回りに配置していたことです。
おそらくですが、希死念慮はありましたが、どうにか一晩をどこかでやり過ごして、自宅に帰ろうと思っていた。
これがスタートだったのにもかかわらず、それまで溜まった様々な思考と、PMSと、当日の母からの突き上げでパニックになった。
薬を服薬しても、しっかりとした専門的な精神科での処方薬ではなく、やみくもに機械的に処方されていたものだったため、自我を失い、自殺未遂まがいの行動に至ってしまった。
というのが、その時の状況を後から聞いて自分を分析した結論です。
自殺未遂(まがい)後の数日
どうやって自宅に帰ったのかも覚えていません。
そして、その日から数日?しばらく「おばさん」が母と子供と私の住む家に泊まってくれていたそうです。
フラフラなのに、雨水ちゃんはね、お母さんがお風呂に入りだすと、湯たんぽを入れ始めるのね。それでね「そんなのしなくていいよ」とおばさんが言ってもね、黙って湯たんぽを沢山いれてね、おばさんの布団にも入れてくれたんだよ?覚えてる?
と言われました。覚えてないんですよね。これを書いている今も、覚えていません。
湯たんぽは、母も私も寒がりなので、寒い時期に毎日入れていました。
毎日6つ。大きなヤカンにお湯をたっぷりと3回沸かし、6つの湯たんぽを布団に入れます。
母の布団に4つ。私の布団に2つです。結構な重労働だったな、と思います。
でも、母は腰が悪く、足も夏でも冷えていたので、ずっと何年もしていたんですよね。
習慣化。モルモットのように、プログラムされた日々の行動。同齢の様だとも思います。
悲しい奴隷。母のことが大好きで、「ありがとう」と言ってほしくて、毎日毎日入れ続ける。
冬は4つ。春になると数が減ってきて、夏は1つ。秋になるとまた数が増えて行って、最大で4つ。湯たんぽ。入れていました。
まさかの引っ越し。母も一緒。
実はこの頃、家を買った時期でもありました。
引っ越し、引き渡しが確か10日ほど後に控えていたと思います。
普通しませんよね。延期するはずですが、母の知っている会社がこの不動産売買にかかわっていたため、延期するという発想が「毒親思考あるあるで」ありませんでした。
何の問題もありませんけれども?というテイで、引き渡しも引っ越しも行いました。
もちろん、母も一緒にお引越しです。運命共同体でしたから。
私の事情を知っていた「おばさん」は、「雨水ちゃんがこんな時期に引っ越しだなんて。延期したほうがいいんじゃない?」と言ってくれていたそうです。
ただ、母は「雨水がどうしても引っ越しの予定は変えたくないって聞かないのよ」とこぼしていたそうです。私には記憶がありませんので真相は定かではありません。
しかし、この住宅は私の貯金と、私名義のローンで購入したのですが、母の知人の多くに母は、
- 「私の今まで住んでいた家を売り払って、そのお金で雨水に家を買ってあげた」
- 「雨水はローンが通らない」
- 「雨水は貯金が何にもない」
と吹聴していたという事が後に判明しました。嘘だらけ…。
つづく
まとめ
母との最終対決について綴ろうと決意し書き始めました。
母の住んでいた実家で、母と子供と私の3人で暮らした5年。そして、私が自宅を購入して引っ越しをするまでのお話です。
もう少しコンパクトになるかと思っていましたが、かなり長くなってしまいました。
毒の人はエピソードがふんだんにありますね。ここに記した以外にも、もっともっとたくさんの毒のエピソードがあります。
そして、まだ触れていませんが、お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、息子が受けた被害も相当なものでした。
毒に侵されて行く母親(私のことです)が、毒祖母(私の母)に負けてしまい苦しい思いを沢山させました。
私も、母が毒親だと気づいてから、決別を誓い、行動に踏み出すまでに、母と同じまではいかないにしても、同じような毒の思考での子育てをしてしまっていたと思っています。
今、息子とはそういった話を良くします。そして、申し訳なさ、謝罪、生きてきてくれたことへの感謝。これを胸に、日々息子と暮らしています。
そのことについても、母との体験談がひと段落した折には綴りたいと思います。
私と同じように、毒の連鎖を計らずとも繋いてしまっているかもしれないパパママに届いたら、と思っています。

