私の生い立ち、反省についておおまかに綴っています。
二十歳のころに、機能不全家庭での生活に耐えられなくなり家出をしました。
成人式を前に、実家に帰るかどうかの話し合いをすることになり(私の生い立ち5)少し様子を見ることにしました。
この記事は、それから成人式当日までのお話です。
私は幼いころから母や祖母に厳しく育てられ、ずっと自分自身を責め、追い立てながら生きていました。
今は解毒が終わり、こうして自分自身の過去についてブログに体験談を綴れるようになりました。
この記事は実体験を綴っています。実際に母からされたことなどを書いています。
できるだけ感情を入れずに書くようにはしていますが、機能不全家庭での体験談です。
お気持ちがつらい時には、こちらの私の生い立ちをお読みになることをお控え下さい。
生立ちについて、他の時代のものを既にお読みの方は、他の生い立ち記事と内容が重なりますので、目次にある「はじめに」をとばして次の章からお読みください。
はじめに
この記事の想定読者は
- 近親者が自ら命を絶ち辛い。経験者の生い立ちが読みたい
- 共依存や鬱、その他精神疾患に悩み辛い。同じような経験者が自分の体験をつづっている記事が読みたい
- 虐待経験者の生い立ちを読みたい
- 自ら命を絶とうとしたことのある人(雨水。)の生い立ちに興味がある
- 雨水。の生い立ちってどうなのか知りたい
こういった方に向けて、自身の経験を記事にしています。
記事がかなり長くなりましたので、20代以降のものも順次公開していきますので今しばらくお待ちください。
そして、読んでいただくうえでお願いしたい、お伝えしたいことがあります。
- 不幸自慢をしたくて書いていないという事をご理解ください。
- 私は大きな解毒は終わっていますが、それを誇りたくてかいているのではない、ということもご理解ください。
- 毒の子育てはいけないことだ、と私は思っています
- 毒の人に育てられた方が、これを読んで、立ち上がる糸口を見いだせたらと、思っています。
- 私の経験よりも辛辣で厳しい中に身を置いている人や、その経験がある方も世の中にはたくさんいると、思っています
- 私の体験談を、ご自身の体験を重ねたり、比較して、ご自身を責めたり、落ち込まないでください。
- 前を向くために、「こういった経験をした人間でも、最終的に幸せになることができた」という一つの事例として参考程度にお読みいただけたら、と綴っています。
沢山の情報があふれている中で、つらい経験や、そういった言葉を目にした時に、ご自身が辛くなってしまうこともあります。焦ることも。
私は、「自分の親が毒親だ」と気づくのに35年もかかりました。
そして、それから何年もかけて解毒を進めてきて、今に至ります。
どうか、ご自身のペースで色々な事を進めて頂きたいと、切に願っています。
私は、今これを読んでくださっているあなたが、ご自身を整えるのに役立ててくださればと、願っています。
成人式はどうするのか
家出を心に決め、実行した時から、成人式への出席など毛頭考えていませんでした。
しかし、友人たちは「親御さんのことで、雨水が成人式に出ないなんておかしい」と言い、
また、家族関係がうまくいかずに成人式に写真を撮らなかったというバイト先の先輩たちからも「親が気に入らなくても何でも、二十歳の時の写真だけは取っておけばよかったと思ってる」と言われ、「嫌でもなんでも行っておいで」「写真だけとって、それでやっぱり嫌だと思ったら帰ってきたらいいんだから」と言われました。
結局、成人式には出ることにし、前日の夜に実家に1泊することになりました。
冷え切った実家
実家に帰った日のことは覚えていません。
ただ、とにかくガランとしていたことを覚えています。
明かりもともっているし、暖房も入っているのに、冷たい。寒々とした実家でした。
私の部屋の机は、母が一度荒らして、どうにか体裁を保つように整えられた感じになっていました。
成人式前夜に、家族と話をした記憶はありません。
成人式当日
成人式当日は、母が友人に頼んで着物を用意してもらっていました。
支度を整え、父の運転する車で写真館へ行き、記念写真を撮りました。
写真撮影の後、成人式に参加し、終わると実家に戻り、着替えました。
確かこの日は、成人式で久しぶりに再会した元同級生たちと食事に行ったように思います。
実家での毒の空気に侵されてゆく家族
成人式の日か、その前後だったか覚えていませんが、弟とのやり取りはできるようにしていたと思います。
そして、ある時、弟から「ねぇちゃん、もう限界だ」という連絡が入りました。
兄が年中大暴れししていた実家で、母は八つ当たり先、愚痴のはけ口である私を失いました。そして、これまでは可愛い可愛いできた弟にまでも、毒を注ぐようになっていったようでした。
- 母とは口も何か月も聞いていない
- もう実家には帰りたくないということ
そんな内容の電話でした。
幼い頃から可愛がっていた弟がだすSOS。私は弟をしばらく預かることにしました。
この頃、弟は高校生でしたので、お弁当を用意するかお昼代を持たせて、私の家から学校に通わせました。
私に関わりたい母。再び始まる操作
弟を預かり始めて暫くすると、母から執拗に連絡が入るようになりました。
成人式の時に連絡先を伝えたのか、成人式前後のやりとりから徐々に母とのやり取りが始まったのか、あまりよく覚えていません。
まだ洗脳真っただ中にいながら、必死で戦っていた時期です。
弟と暮らす中、母から食べ物や日用品などを渡したいからと住所を聞かれたか、したような気もしますが、やはり記憶はあいまいです。
そんなある日、昼間だったと思うのですが、私の住むアパートの台所に、中をうかがう人が人影がありました。「不審者かも・・」と怖くなりました。
玄関側で物音がし、のぞき穴から様子を伺いましたが誰もいません。
再び台所に足音を立てずに回ると、走り去る人影のようなものがすりガラスに映りました。
あれは、母だったと思います。
弟ととの暮らしは、生活費の面からかなり苦しくなりました。
どのタイミングで弟が実家に戻ったのかもあまりよく覚えていませんが、1か月か2か月程一緒にいたと思います。
そして、そのあたりからまた、母と連絡を取るようになったと思います。
母と連絡を取る中で、以前、母とKさんとの3人で話をした通り、母は以前よりも弱く、私に八つ当たりをするようなことはなくなったように感じていました。
母は孤独でした。
父である夫は、会社を辞めてからフリーランスとして仕事をしていましたが、母との関係は冷え冷えとしたもの。
祖母は好き勝手わがままをし、常に母を監視し、支配下においていました。
兄は相変わらず定職に就くこともなく、夜な夜な遊び歩き、祖母や母にお金の無心をしたり、気に入らないことがあると家で暴れたりする日々だったようです。
こうして、「これ以上娘に迷惑をかけたくはない」という健気なイメージを私に再度植え付けることに成功した母は、卓越した操作のバランス感覚で私を操作することに成功しました。
こうして、弟が実家に戻ると、
「雨水ちゃんがいた頃は幸せだった。また一緒に暮らせたら」
「弟が言うことを聞かない。このまま不良になったらどうしよう」
といった母からの連絡が頻繁に入るようになりました。
弟や家族が心配になり、また、自分がいることで家族が私を頼ってくれる、と言ったことにしか自分自身の評価を保つことができなかった私は、実家に戻ることにしました。