幼児期から小学生の頃までの生い立ちについて綴ります。
私は、機能不全家庭に育ち、ずっと自分自身を責め、追い立てながら生きていました。
今は解毒が終わり、こうして自分自身の過去についてブログに体験談を綴れるようになりました。
この記事は実体験を綴っています。実際に母からされた折檻についてなど、できるだけ感情を入れずに書くようにはしていますが、機能不全家庭での体験談です。
お気持ちがつらい時には、こちらの私の生い立ちをお読みになることをお控え下さい。
生立ちについて、他の時代のものを既にお読みの方は、他の生い立ち記事と内容が重なりますので、目次にある「はじめに」をとばして次の章からお読みください。
はじめに
この記事の想定読者は
- 近親者が自ら命を絶ち辛い。経験者の生い立ちが読みたい
- 共依存や鬱、その他精神疾患に悩み辛い。同じような経験者が自分の体験をつづっている記事が読みたい
- 虐待経験者の生い立ちを読みたい
- 自ら命を絶とうとしたことのある人の生い立ちに興味がある
- 雨水。の生い立ちってどうなのか知りたい
こういった方に向けて、小学校の頃までについて書いています。
記事がかなり長くなりましたので、分けています。順次公開していきますので今しばらくお待ちください。
この記事は実体験を赤裸々に綴っています。実際に母からされた折檻についてなど、厳しい単語が登場します。
お気持ちがつらい時には、こちらの私の生い立ちをお読みになることをお控え下さい。
そして、読んでいただくうえでお願いしたい、お伝えしたいことは
- 不幸自慢をしたくて書いていないという事をご理解ください
- 私は大きな解毒は終わっていますが、それを誇りたくてかいているのではない、ということもご理解ください
- 毒の子育てはいけないことだ、と私は思っています
- 毒の人に育てられた方が、これを読んで、立ち上がる糸口を見いだせたらと、思っています
- 私の経験よりも辛辣で厳しい中に身を置いている人や、その経験がある方も世の中にはたくさんいると、思っています
- 私の体験談を、ご自身の体験を重ねたり、比較して、前を向くためにお役立ていただけたらと、書いています
ということです。
沢山の情報があふれている中で、つらい経験や、そういった言葉を目にした時に、ご自身が辛くなってしまうこともあります。焦ることも。
私は、「自分の親が毒親だ」と気づくのに35年もかかりました。
そして、それから何年もかけて解毒を進めてきて、今に至ります。
どうか、ご自身のペースで色々な事を進めて頂きたいと、切に願っています。
私は、今これを読んでくださっているあなたが、ご自身を整えるのに役立ててくださればと、願っています。
幼児期
私には一つ年の違う兄弟がいました。
この兄弟と私は、母が20代後半の頃の子供でした。
4大卒で都会生まれの父と母は、近所でも有名なインテリ若夫婦で、その地域でもちょっとした有名人でした。
都会から田舎に引っ越してきて、30歳そこそこで一軒家を購入。小ぶりでおしゃれな外車に乗り、日曜日には毎週、子どもたちを教会の日曜礼拝に通わせていました。
ちなみに、家族のだれ一人洗礼をうけていません。
祖母は熱心な仏教徒でしたし、両親ともに日本人によくある「信心はないけど何となく家系の宗教(仏教)」な感じでした。
母はよく
- あなた(私)は目が悪いからきっといじめられる
- だから人生で苦しい日が来た時に何かよりどころがあった方がいいと思って教会に通わせた
と言っていましたが、私意外には
- 教会という文化を子供のころから知っておくのは良いこと
- 私(母)は大学がミッション系でとても素敵だから経験させてあげたくて
と他所の人には話していました。
今思えば、「人の目を気にしてるなぁ」と改めて感じます。
おそらく
- 娘(私)のよりどころになったらいいな
- キリスト教文化というものに触れさせたいな
というものも彼女の本音であったとは思いますが、
- 昭和の時代に田舎町へやってきて「ミッション系の4大卒」というのを周りに誇示したかった
- 教育熱心な都会からきたママ
という評価も欲しかったのだろうと思います。
その証拠に、我が家のお菓子はすべて手作りで、時々近所の主婦を集めてパンを焼く。
外面の良い、常識的で朗らかな明るい捌けた若いママ。でした。対外的には。
そして、対子供に対しては、愛情あふれる熱い人ではありましたが、母自身が厳しい子育て(というか虐待)の元に成長したため、我が家では虐待が横行していました。
このブログに訪問される方のほとんどが「毒親」「共依存」「虐待」「AC」など、そういった経験をお持ちの方かと思います。
私もそうですし、もちろん、母もそうでした。
2歳のころからピアノ教室に通わされていた私たち兄弟ですが、毎週レッスンの帰りには、山奥に車で連れていかれ、捨てられるもしくは捨てると脅されるのが習いでした。
私たちは喧嘩をすると、真夏の昼日中に外の物置に閉じ込められたり、雨の日に家から閉め出されたり日常茶飯事でした。ご飯をもらえないこともしょっちゅうでしたし、押し入れに閉じ込められたり、物差しや布団叩きなどでの体罰、あとは、お線香を手にすえるなどもありました。
体罰ももちろん。とにかく、母の機嫌を損ねないようにすること。そして、自分を守るためには兄弟を出し抜くことも時にはする。そんな悲惨な幼少期でした。
小学校時代
小学校に上がるときには、入学式で私は代表挨拶をしました。
母は、家では「それくらいアタシの娘なら当然よ」と言っていましたが、ご近所には「大したことないのにねぇ。」と言いながらも得意満面でした。
期待の長男である兄の成績が両親の望むものではなかった為、一時的に私に期待が寄せられました。
しかし、年の離れた弟の出来が、私よりもどうやらよさそうだということが、私が小学校3年生頃に判明すると、母の興味は弟に注がれるようになりました。
弟に私が感じた劣等感と同じように、私の上の兄弟も、私に感じていました。
母の興味関心を引くこと。褒められることが生きていく上での最大限の褒美でした。そして母はめったなことでは私たちを褒めることはありませんでした。
学級委員は当たり前。学校代表で表彰されることも当たり前でした。
そして、選ばれるために必死で努力をし、負けず嫌いで可愛げのない子共に成長し、その努力量とは裏腹に、自己肯定はどんどん低くなっていきました。
もっと頑張らないといけない。こんなんではだめだ。まだまだだ。理想ばかりが高くなり、子供らしく無邪気に過ごすという事は許されなかったように思います。