今日はツイッターに毒の人があふれている。
そこら中に、懐かしい我が母の言動があふれかえっている。
子供たちのリビングでの成長がみられるやり取りに、突如ゴミ箱を蹴散らし部屋から出て行く毒の人
はたまた、苦しんでいる子供に向かって「私の方が辛いんだ」と喚き散らす毒の人
かと思えば、「泣くんじゃない!」と幼い頃に娘を押さえつける毒の人
そこら中に、私の懐かしい毒母がいる。
懐かしくて、情けなくて、切なくて、悲しい。
不器用な子育て。
下手くそうな子育てをしながら、
理想を子供に押し付け、押し込め、無茶苦茶を言い、愛情をぶら下げて操作し、支配した私の母。
愛情と恐怖のアメとムチで飼育された幼いころの私。
ほんのわずかな愛情に触れたくて、必死に生きてきた私を懐かしみ、抱きしめる。
そして、私が幼かったころの鬼ババァは、今の私よりも若く未熟なのが分かるから、
もしもタイムマシンがあったのならば、過去へ行って、母に説教を垂れてやりたい。
論破する自信もある。
でもそれはかなわなくて、生きてもいないから、文句を言う事もできない。
でも、文句を言われることもない。
母の仕事を継いだので、母の毒をたくさん含んでいる信者のようなお客様に囲まれた仕事が苦しくて、今距離をとっている。
それでも、毒のとげがうずくような小さなチクチクした出来事が時々起こる。
そのたびに、自分を静かに立て直す。
自分の傷を探す。
トゲが刺さっていたら、それを抜いて、手当てする。
ただの傷跡だとわかったのなら、もう大丈夫なのだったと、胸を撫でる。
ひたすらにその繰り返しをしている。
私の相談室にお越しになる方にいつも伝えていること。
私が実践していること。
毒の沼で育った人は
頑張りすぎる。
限界を超えてなお、走り続けようとする。
普通の人がゆっくりと準備して、整えて、服装もシューズも準備運動も、もちろん事前にそれなりの体力作りもしたうえでフルマラソンに挑み、ゴールをやっと迎えるのに、
毒沼に育った人は、鉄の鎧を肌の上に纏い、足元ははだしでフルマラソンに挑むような真似をしている。
そして、あろうことか、ゴールをした後にもまだ、血だらけの足で走り続けようとする。
それなのに、自分を大切にすることや、自分がくつろぐこと、否、必要最低限の休息さえ得ることを許されずに生きてきたから、自分を休ませることが必要だと気づけない。
それは、その、毒の沼に育った人が悪いのではなく、毒の人や毒の沼が悪いのに。
なのに、毒の沼に育った人は、自分を責める。
もうそんなに責めなくていいのだと、どうか知ってほしい。
それでも、自分を責める癖が身についてしまっている。それもわかる。
それは仕方のないこと。
でもね。
傷だらけなのに、その傷は泥だらけなのに、大丈夫と笑顔をつくりながら、汚い布で止血して、まだ走ろうとしても、走れないのです。
その傷は、貴方をむしばんでいく。癒えるのに、ものすごく時間がかかるのです。
傷だらけのまま、走り出さないでください。
まずは、疲れたら、
傷を観てあげてください。
ああ、傷がある。と認めてあげてください。
そして、その傷にただ布をあてるだけではなくて、まずは、綺麗に洗い流してあげること。
汚れを洗い流してあげたら、消毒をしてあげること。
消毒が終わったら、綺麗な布で保護してあげること。
そして、休むこと。
大丈夫なんです休んでも。
これまでずっと走ってきたあなたには、常人にはない能力がある。
情人には計り知れないほどの、忍耐力もある。
だから大丈夫ですから、まずは休んでほしい。
毒の人にすり減らされてきたアナタの心を、まずはゆっくりと休めてあげてほしい。
毒の人がなんと言おうとあなたは美しい。
あなたには生きる価値がある。
あなたは愛される価値がある。
あなたが生きていてくれて私は嬉しい。
これを読んでいてくださるという事は、生きていてくださっているという事。
とても辛かったことと思うのです。
わたしとあなたは異なる人なので、
あなたの辛さはあたなのもので
私の経験した辛さとは異なることも、私は知っています。
文字にしたら同じ経験もあるかもしれないけれど、あなたほどのつらい思いを、私はしてきていないかもしれない。
それでも、何度も死のうとしたことのある私です。
生きていることの意味がずっと分からずに過ごした40年があります。
それでも、今は大きな深い毒沼から抜け出して、今では幸せに暮らしています。
生きていてよかったと思える生活を送っています。
きっとなれると
私は思うのです。
あなたを責めたりしません
あなたを認めています
あなたが生きていてくれていることに感謝しています。
あなたがどうか
一日でも早く
生きていてよかった
と思える日が来ることを
心から願っています。