母は母子家庭で育った。
私からみた祖母と曾祖母。
母から見た、母と祖母。
この女三人で育った。
職業婦人で一日中仕事に出ていた祖母に代わって、母を育てたのは曾祖母とご近所さんだった。
長屋という言葉が母から聞こえてきたこともあるように記憶しているので、長屋住まいの経験もあるのだと思う。
あとは、親戚やらお友達とその親御さん。
母子家庭の母を不憫に思ったのか、そもそも時代背景から何でもかんでも子供の面倒は近所みんなで見る、だったのかはわからない。
ただ、母の幼少期の話には、よく、「何とかちゃんのお友達のお母さん」だったり、近所の「ナンタラおじさん」だったり、「棟梁のなんたらさん」
だったり、色々な大人が登場した。
母子家庭であっても、母方の両親やらがいたり、男兄弟がいたりするとまた話はちがってくるのだろうが、母は完全なる小さな女系家族で育った。
そのため、男性が家庭内、生活の中に存在しなかった。
祖母が少し色っぽい人だったり、男の人に頼るひとだったらまた違うのだろうが、祖母はそうではなかった。勝気。よく女だてらに、と言われたと言っていた。余談だが「女のくせに」と「女だてらに」は、我が家ではよく登場する言葉だったように思う。
そんなわけで、母は男性のいない環境で育っていった。
母がまだ小さい頃、親戚だか近所のお友達のお父さんだか忘れたが、とにかく「ナンタラおじさん」が母を銭湯に連れて言ってくれたそうだ。
おそらく、小学校に入る前とかそれくらいと思われる。
母の目の前に、裸になったおじさんのソレがぶら下がっていた。
母は、始めてみるソレが何か分からずに「おじさん、これなぁに?」と無邪気に聞いたそうだ。
おじさんはおどろきながらも「男の人にはついてるんだよ」と襲えてくれたと言っていた。
アダルトな意味ではなくて書いている。
そして、これを書きながら、少し涙がでそうになっている。
父親という大きな笠がない世界で、母はずっと生きてきたのだ。としみじみ思う。
必ずしも、世のすべての父親が大きな笠となり、優しく、たくましいとは限らない。
ただ、自分自身に父親がいたら、それがろくでもない父親だったとしても「ろくでもない父親だから要らない」という判断も行動もできただろうと思う。
だが、母にはその選択しさえ用意されていなかったのだということを、しみじみ感じている。
銭湯でのその話を母は私に何度かしたことがある。
そう。何度も聞かされた。彼女が亡くなるまでの間。私が40歳になるころまでに。おそらく5回は聞いたことと思う。
何度目かにその話をされたとき、確か私は小学生高学年頃だったと思う。
「お母さん、コレナアニ?って聞いたんでしょう?」と少しからかうように私が言葉を発したら、複雑な顔をして何も言わなかったことがある。
そして、またずっと立ってから。いつだろうか、私が高校生か、成人することだったか。
同じようにまた、少し茶化すような感じで先回りして「これなぁに?でしょう?」と言ったら、泣いたことがある。
「そうよ。だって知らなかったんだから」
と。
その時は、ああ。お母さんごめん。そんなつもりじゃ。
と思った。そして、悲しそうな母を見て可哀そうだと思った。
その時の感情は覚えているけど、今、この出来事を思い出してこみ上げる感情はもう少し違う。
母が生きていたら、この話もしたいなぁと思う。
叶わないけれど。そう。もうかなわない。
死んだ人間は戻らないから。
母が亡くなってからもう何年もたっている。
母との共依存は殆ど断ち切ったし、今は、同じような苦しみを抱えている人の話を聞いたりしている。
それでも、母のことを深く考えると、はやり涙はでるものなのだなと思う。
それでいいのだけれど。
家族が自殺した方。
共依存や毒親、毒母さんが八つ当たり自殺した方。
怒ってもいいし泣いても良いのです。
感情のエネルギーは発散。特に怒りのエネルギーは運動やカラオケで発散。
涙はどんどん流したらいいと思う。
沢山傷ついてきた方。たくさん傷ついた方が、このブログにたどり着くのだと思います。
まずは、ご自分を責めないで。
ご自分の感情を受け止めてあげてくださいね。